バトルポッドと新幹線ゲームのこと

この記事には、今まで一番苦戦しました。時間もかかかりました。

「文化って結局ビジネスになるの、ならないの?」というのがテーマです。

今のこの国のビジネスと文化のあり方ついて、 堀江貴文さんを中心に据えつつ考察し、 ある種の見通しのようなものは提示できたと思います

目次

  • バトルポッドのこと
  • 新幹線ゲームのこと
  • 豊かさとは
  • バブルのころ
  • ホモサピエンスと森鴎外のあいだ
  • あえて言うホモサピエンス
  • 小林秀雄の「私の人生観」
  • 150年の文化の蓄積
  • 近代日本人の精神構造
  • ブッダもバッハもゴッホもいらない
  • 驚くほどフラットな人
  • 小林秀雄 – 糸井重里の系譜
  • 文化はビジネスの邪魔か

バトルポッドのこと

実家に帰省した時に、ときどき回転ずしに行きます。

その回転寿司店の後ろに大きなゲームセンターがありまして、
食後の腹ごなしに中をぶらぶらすることがあるんですね。

ただぶらぶら見て回るだけなんですけど。
結構面白いんです。

相当大きな、体育館みたいな広さのある建物です。
天井も高いです。
新旧取り交ぜて、さまざまな機種ずらーっと陳列してあるんですが、
当然最新鋭のマシンもあります。

ポッド型っていうのかな・・・

写真

中に入ると(入ってみるわけですがw)180度以上の視界でスクリーンが広がっていて、それが動くので思わず酔いそうになります。

音もズゴゴッと腹に来ます。

ポッド自体が揺れていたような気もするけど、これは僕の錯覚でしょう。とにかく、それれくらい迫力があって、すごいんです。

新幹線ゲームのこと

でも、そのポッドの傍らには、
僕が小学生のころに、駄菓子屋の店先に置いてあったようなゲーム・・・
あれは「新幹線ゲーム」?

十円玉をパチンコみたいにはじきながらゴールを目指していくという
ああいうものもひっそりと置いてあるんです。

新幹線ゲーム

他にも各時代のゲームがあります。

エアホッケーゲームとか競馬ゲームとか
でも、ゲーム博物館ではなくて、あくまでゲーセンです。

みんな太鼓をたたいたりして遊んでます。

しかし店内を歩き回るだけで1970年代半から2010年代後半までの
40年近い日本のゲームの歴史が味わえるようにもなっています。

そうやって店内をぶらぶらしていると、ふと

「豊かさってこういうもんだよな・・・」という気分が湧いてきました。

豊かさとは

僕が行ったとき、広い店内にポッド型は3台しか置いてありませんでした。

これがもし中国の最新型アーケードゲームセンターだとすれば、
ポッド型が100台くらいずら~っと並んでいてもおかしくないと思います
(あくまでイメージですが)。

それで「どうだい?すごいだろ」って言われるかもしれない。
「お前らの国は3台だけかよ、しょぼいな」と。

でもね。

僕としては「それは違うんだよな~」って思ったりします。

「本当の豊かさってものをお前らわかってないな~」っと。

本当の豊かさってのは、最新式が100台並んでいることじゃないと思うんですよ。

最新式ポッド型の横に新幹線ゲームも置いてあって、どっちも尊重されているのが本当の豊かさではないかと。

これは文化が蓄積されて初めて可能なことです。

ポッドに入ってグラグラすることもできるし、10円をはじいて遊ぶこともできる。

これは日本のゲーム文化が、それだけの年月をくぐり抜けてきたということだと思います。

蓄積があってこそです。

その日ゲーセンをぶらぶらしながら、そういうことを思いました。

バブルのころまで

少し前まではこうではありませんでした。

高度成長期からバブルのころまでは、西洋風の豊かさのイメージを追いかけるのに、僕らは必死だったような気がします。

今、トレンディードラマを見ると笑ってしまうけど。
ためしに大林宣彦監督の『異人たちとの夏』という映画を見てみてください。

映画自体はいい作品だと思います。ただし、今だから笑えるところもあります。

1988年制作なのでバブル崩壊の前年ですから、ちょっとイタい部分があるというか。

作品の冒頭で、風間杜夫さん演じる売れっ子脚本家が、おしゃれなマンションで自作ドラマのVTRをチェックをしているシーンから始まるんですけど、なぜかワイシャツにアームバンドしているんですよ笑

そこにディレクター(永島敏行)から電話がかかってきて
「どうです?」って感想を聞かれて

「ずっと籠りっきりだったから外で食事しようよ」って風間さんが答えるんだけど

ずっと籠りっきりで脚本を書いている奴がワイシャツにアームバンドするかよ!ってツッコミたくなるんですよね笑

当時の”業界人”というのはこういうイメージだったのかもしれません。

あるいは、出かけるつもりでひげをそってワイシャツを着たところにスタッフから電話がかかってきたという設定かもしれませんが。

いずれにせよ、そのあと昔の浅草にタイムスリップするので、かなりのコントラストがあります。

永島さんのネクタイも派手だし、あの時代の、みんなで背伸びし合っている感じがよく出ていると思います。

でも、今の時代はそういうのはないですよね。

業界関係者だろうが芸能人だろうが、自宅ではユニクロの上下でゴミ出ししてるんだろうなっていうのが、僕のイメージです。

このイメージの変化は、国が貧しくなったというよりも、豊かさに対したちょっと肩の力が抜けたということではないかと思います(貧困の問題がないと言っているわけではありません)。

ホモサピエンスと森鴎外のあいだ

文化とビジネスについて、こういう風なことをあれこれと考えるようになったきっかけは、YouTubeで「HORIE ONE」という動画を見たことにあります。

この動画は、堀江貴文さんのコメントが毎回素晴らしいので、なるべく全部見逃さないようにしています。

数週間前に「天皇陛下退位」に関する回を見ました。

これを見てから、文化の蓄積とネットビジネスということについてずっと考えています。

さて、この回では作家の猪瀬直樹氏がゲストに登場しています。

そのときの猪瀬氏のコメントがなかなか良かったんですよ。

まず堀江さんが、司会者の方から「皇室のことをどう思ってんですか?と」聞かれて
堀江さん自身は、「どうでもいい」という風にまず答えてます。

「左翼も右翼もみんなよりどころがほしいんだな~」などとも言っています。

さらに続けて、天皇制のようなファンタジーを信じることができる能力がホモサピエンスにあるのは分かるけど、というところに話持っていっています。

いやいや、いきなりホモサピエンスかよと。

しかし、猪瀬さんは、森鴎外まですばやく話を戻してきます。

「森鴎外は、西洋に留学しているから万世一系の幻想は信じていない。

しかし、幻想を信じていなくても、信じている「かのごとく振る舞う」ことをしなければ近代国家が成り立たないことをわかっていた、という風に解説します。

アメリカでも、トランプさんだって聖書に手を置いているわけでしょ・・・と。

国家の中心には空白の領域がなければ成り立たないんだよ・・・。

合理主義と伝統とを屈折しながら折り合いをつけているのが近代なんだよ・・・と。

このあたりまで、番組の邪魔にならない範囲ですばやく素描している猪瀬さんに「すごいな~かっけーなー」と思ったんです。

ここで猪瀬氏がコメントしている内容は、たぶん彼の出世作である『天皇の影法師』をかいつまんだ内容ではないかと思います。

僕はこの本を読んでないのでなんとも言えないけど、ネットで調べた感じではおそらくそうでしょう。

まあ、そういう造詣があってこそこの回に呼ばれたのだろうし、
猪瀬氏もそれをわきまえて、望まれている通りに発言したというところでしょうか。

それに対しては堀江さんも「すごいですね・・」と、かなり気のない相槌を(礼儀に失しない範囲で)打ちながら、番組は次の話題へと移っていきました。

あえて言うホモサピエンス

この動画で僕が引っかかったのは、堀江貴文さんがあえて「ホモサピエンス」と言った箇所です。

彼は、日本人とかアジア人とか近代人とか言ってません。

ホモサピエンス・・・わざとですよね~。

かなり極端な科学技術主義というか
“科学があれば文化はいらないぜ”っていうスタンスをわざわざ出していると思います。

堀江貴文さんのファンで、ここに共鳴している人たちはかなり多いのではないでしょうか。

僕自身、堀江さんはすごく参考にしているし、勉強になるし、影響を受けるんですが、今回の猪瀬さんとのやり取りをみて、

「最近こういう議論をすっかりなおざりにしていた・・・」

と、我に返る感じがあったのも事実です。

小林秀雄の「私の人生観」

なので、翌日は久しぶりにビジネスに何の関連もない本でも読んでみようかな・・・と思ったんですね。

猪瀬さんのコメントから受けた“あの感じ”を取り戻すには何を読めばいいのだろうか・・・
ダンボール箱をひっくり返してみました。

まずは中沢新一さんの『野うさぎの走り』を取り出してみたりもしたんですが、「これでもいいけど・・・もうちょっとさかのぼろう」と思い

ああでもない、こうでもないといろいろ考えて、結局は「ああ、小林秀雄だな」と思ったんです。

それで3時間ほどかけて「私の人生観」という作品を読みました。

内容は、ごくごく簡単に言うと

ブッダや宮本武蔵のたどりついた境地を、フランスの哲学者ベルグソンの思想を援用して再評価するような内容でした。

東洋思想の神髄を西洋思想に基づいて再解釈したような作品です。

和魂洋才の極みという感じ。

ところで、さきほど猪瀬氏の「近代とは合理主義と伝統との折り合い」というコメントに触れましたが・・・

西洋諸国は、アメリカに限らず、いまだにキリスト教とダーウィンの折り合いに苦しんでいます。

日本にはそれはないけど、天皇制と近代合理主義の折り合いには苦しんでいると思います。

150年の文化の蓄積

かつてアメリカに留学していたころ、マレーシアの留学生から
「君ら日本人は、自分が西洋人だと思っているだろ」
と詰問されたことがありました。

しかしですね~コトはそんなに単純ではないのですよ。

150年前、それまでチョンマゲに二本差しだった僕らの先祖は、短期間で洋服を着て革靴で歩き回るようになり、西洋式の軍隊を整えて、三味線を捨ててダンスを習い始めました。

国が生き延びるためです。

そういう変化を自発的に経験した国は、他のどこにもありません。

そして、そういう無理をした結果のしわ寄せと言いますか、近代の歪みを今日までずっと抱えています。

近代日本人の精神構造

最近は、アフリカの奥地にいきなりスマホが入り込んでいくような感じだということをどこかで読みました。

そのスピード感は、まるで日本が150年かけて一つ一つくぐり抜けてきたものを一瞬でワープしているかのように思えます。

幸か不幸か、僕らは、いきなりスマホには行けませんでした。

人力車やすき焼きから始まって、
鉄道、自動車、蓄音機、テレビ、ラジオ、洗濯機、ビデオ、ファミコン、第五世代コンピュータ、キャプテンシステムの失敗、Iモードなどなど一つ一つクリアしてきて、いろいろ蓄積してきた挙句に、ようやくスマホまでたどり着きています。

そのあいだに文化の面でもいろんな歪みを蓄積しており
その中で懊悩したのが漱石であり、鴎外であり・・・

かなりざっくりと言えば、その行きついた先が小林秀雄に代表されるような言論人じゃないかと思います。

先ほどもちらっと触れた和魂洋才というのは、
魂が日本人で、才能が西洋人という意味で使われる言葉です。

日本の言論人の精神構造は、二階建ての家屋になぞらえて説明されることが多いようです。

つまり、
一階には西洋風の応接間をしつらえてピアノが置いてあるけど
二階には畳が敷いてあってと仏壇が置いてある家屋みたいなものだということでしょう。

こういう部分が、日本の近代文化が抱えている歪みだと思います。

ブッダもバッハもゴッホもいらない人

堀江貴文さんが、天皇制の問題に対して、”ホモサピエンスの幻想”という風なコメントをするのは、
文化の屈折なんか全部どうでもいいんだよ
というスタンスの表れだと思います。

気の合う仲間とやりたい仕事をして、ウマいものを食って、ゴルフをやっていれば、OK。

生病老死の問題はテクノロジーがいずれ全部解決してくれるはずだから
ブッダもバッハもゴッホもいらないよ、という感じではないでしょうか。

堀江さんは天才だと思いますし、これはさすが天才ならではの割り切り方ですよね。

でも文化というものについて彼が本当のところはどう思っているのか、これだけではよくわかりません。

驚くほどフラットな人

こうしたことをウダウダと考えている間に、また別の堀江さんの動画を観ました。

これを観たことで堀江さんが文化というものをどういう風に捉えているのかが結構わかりました。

これです。

歪んだ概念に惑わされるな!?こども食堂の本当にあり方とは【乙武洋匡×堀江貴文】

ここでは、「なぜファミマで子ども食堂をやると左翼が文句をつけるのか」、
「良いことじゃないか」という問題提起がされます(ゆる子A も同意見)

それに対して、堀江さんは「たしかに左翼の人たちの考え方にはどこか歪んだところがある」と答えています。

しかし、さらにこう言葉を続けます。

左翼の人たちはそういう風に考えが歪んでいるからこそ「子ども食堂」のようなアイデアを思いつけるんじゃないかな、と。

そしてこう言います。

そのあたりの歪み方は「アーティストと似ている感じがする」と。
かなり慎重に言葉を選びながら語っていますね

左翼とアーティストを同列に扱っているわけです。

ここが堀江さんのすごいところです。

左翼もアーティストも歪んだものを抱えていて、世の中にうまく適応できない人が多い。

だけど、だからこそ面白いものを生み出すんじゃないかな、と。

こんな斬新でフラットな考え方は聞いたことがありません。

おそらく、堀江さん自身は、そんな妙な歪みは抱えていないタイプの人だということなのでしょう。

たぶん、ゴッホにもブッダにもバッハにも特に思い入れはなく、彼らも含めて「そういう歪みのあるタイプの人たち」という捉え方をしているように思われます。

そして文化というのは一種の歪みだけど、でもそこから価値が生まれるなら別にいいかな、という姿勢なのでしょう。

批判するわけでもなく、 認めるべきところは認めているという実にフラットな感じなので、全然嫌な感じはしませんでした。

歪んでいる僕

その一方で、僕は猪瀬さんのトークを聞いて
忘れていたものを思い出したという感じでした。

最近、自分自身の”歪み”のことを忘れていた、と思いました。

僕は歪んでいる側の人間なんです。
文学部に行くような人間はほぼ100%歪んでいるタイプです。

言い換えれば、仕事の出来ない奴らです。

小林秀雄 – 糸井重里の系譜

文化とビジネスと言えば、スティーブ・ジョブズは「アップル文化」をビジネスにしたと言っていいと思います。

ジョブスの場合は、自分の歪みをビジネスの武器にした最高に優れた事例でしょう。

フェラーリもロレックスもたぶんそうだと思います(触ったことないけど)

でも、そういう例は日本はにあまり見当たらないような気はします。
文化をビジネスに結び付けた例があまりないように思います。

日本で、明らかに小林秀雄の系譜に連なっていて、
自身の文化的な歪みを活かしてビジネス的に成功を収めている人物は、
僕が思いつく限りでは、ほぼ日の糸井重里さんしかいないと思います。

いや、もしかしたらその前に、セゾングループの堤清二(作家 辻井喬)氏がいたのかもしれないけど?

たぶんそうなんでしょう・・・。

詳しいことはちょっとわかりません。

いずれにしてもお二人とも存在が大きすぎてあまり参考にはなりませんが。

文化はビジネスのじゃまか?

糸井重里さんの文化とビジネスに関する姿勢に関して、かつて詩人の吉本隆明さんが面白いことを言っていました。

ほぼ日で2009年に掲載されたお二人の対談の中で文化とビジネスに触れた箇所があります。(吉本隆明「ほんとうの考え」03)

ずっと僕の印象に残っている箇所です。

https://www.1101.com/truth/2009-04-20.html

ここで吉本さんが糸井さんに言っているのは
“文化へのリスペクトがあなたをホリエモンにしていない”ということです。

****************************
(吉本)
糸井さんがもし、
金儲けとか、商売とか、事業とか、
そういうことをもっぱらにしていこうと
積極的に思い出して、
そういうふうな手段をとり出せば
たぶん、そうとうな
大実業家になるんじゃないでしょうか。
だけど、そう思ってないところがあるんですよ。
やっぱり、文化があり、芸術があり、
知識教養があり、ということを、
糸井さんは捨てきれないところがあると思います。
それがたぶん、事業家として言えば
糸井さんを制約してるし、抑えています。
それは、自分でもって
抑えてるというところだと思います。

ほんとうの事業家をやろうとして、
少し「実業界をのしてやろう」と思ったら、
できる人ですよ。
思ってないからできないんですよ。

文学は毒である

また、同じ対談の中で、吉本さんは
「文化芸術は何の役にも立たない」とも言っています。

吉本隆明さんの著書で『真贋』というのがあるんですが
この中でも似たようなことをおっしゃっています。

文庫版の33ページで
「あらゆるものには毒がある」という話題になって
ホリエモンには金儲けの毒が回っているという話になります。
(ゆる子註:2006年当時の見解です)

その後、しかし文学にも毒がある、という流れになり
「文学を読めば感性が豊かになる、なんてことはありません。」

「豊かにもなるかもしれないけども、毒が回って世間的には役に立たない人間になることもある。」

と発言されています。

ここで「文学の毒」と呼ばれているものは、堀江貴文さんが行っている「アーティストの歪み」と大体同じですよね。

こうしてみると、吉本さんが文化の内側から指摘してる”毒”について、堀江さんは外側からフラットに見ているんだなというのが改めてわかってきます。

文化による価値の提供

ただし、堀江さんは文化の歪みから価値が生まれるのであれば、それはそれでいいという考え方です。

上記の対談でも糸井重里さんは、「文化は役に立たない」という吉本さんの意見に対して、ちょっと違う見方を出しています

(糸井)
こころに傷を負ったり、
退屈してたり、さみしかったりすることは
ものでは埋められません。
だけど、それは市場にはあります。

そして続けてこう言っています

(糸井)
吉本さんは、
「第二次産業から、第三次産業に移行するとき
こころのほうに公害が起こる」
とおっしゃっていて、
あれが、ものすごく
ぼくにとってヒントになっているんです。
治療する薬はないけど、なぐさめることができる。
それは、もしかしたら歌かもしれないし、
大きなお金かもしれない、引っ越しかもしれない、
定食屋のおばさんに
親切にされることかもしれませんけど‥‥

この発言を吉本さんは否定していません。

「関心を引かれる考え方ですね。」と答えたところで記事は終わっています.

新幹線ゲームとバトルポッド

冒頭で紹介したように、地方のゲーセンにすら文化の蓄積というものはあります。

日本は、物量では、アメリカにも中国にもロシアにも歯が立ちません。

しかし、法隆寺を残している国でもあります。
あれがなければ中国の考古学者は研究にならないのです。

さて、 僕自身のこれまでの立ち位置としては、自分が毒されてきた文学の毒はひとまず世間から隠しておいて 、 ITで手に職を付けたり、英語に逃げたりすることで、市場にわずかばかりの価値を提供して、ほそぼそと生活していこうという方針でした。

ただし、本当の僕自身は、かなり文化に毒されてしまった、歪みを抱えた役に立たない人間です。

今回、そういう自分としての立ち位置を忘れないようにしなければ、とは思うようになりました。

バトルポッドの横に新幹線ゲームを置いておけるようなことが、どこかで心の豊かさと関係があるかもしれないし、それが何かの価値を生み出すヒントにつながっているかもしれません。

そういう自分から安易に目をそらして、生きていくのもどうなんだろう・・・と。

自分の歪んだ部分も、ビジネスに生かせる余地があるかもしれませんし。

これ以上の結論というのはないのですが、大事なことなので忘れないように、このあたりでひとまずアップしておきたいと思います。

ABOUTこの記事をかいた人

松山市生まれ、埼玉県在住 京大大学院博士課程中退 カンザス大学修士号 元短大教員 元警備員 元ITエンジニア 現在はウェブ翻訳家 以前は短期大学で常勤講師をやっていました。一生その路線で行くつもりだったのですが、思うところあって退職。その後は、コンビニのバイトを面接で落とされたり、警備員をやって深夜の霊園に怯えたり、ITエンジニアをやったりと迷走しつつ、現在はウェブ翻訳家に落ち着いています。