いつまで入手できるかわからない『翻訳のコツ』―早めのダウンロードがいいかも

故 仁科和夫氏の『翻訳のコツ』という小冊子があります。
本記事は、その紹介です。

といいますか「早めにダウンロードしておきましょう」と言いたいだけです。下記からダウンロードできると思います。

http://www.honyaku-tsushin.net/bn/200209SAp2.pdf

仁科和夫氏とは、『トム・ピーターズの起死回生』などの名翻訳家として知られる方ですが、ずいぶん前になくなられました。その晩年の著作物をまとめてPDFにしてアップロードしてくださっている有志の方々がいらっしゃるようです。

僕が始めてこのPDFに接したのはたしか故 山岡洋一氏のHPだったような気がしますが記憶が定かではありません。その山岡氏も亡くなられましたがこのPDFは相変わらずダウンロード可能なようです。おそらく有志の方々が維持してくださっているのだと思います。

翻訳を仕事にする人、仕事にしたいと思っている人なら誰にとっても一度は目を通した方がいい内容だと僕は思うのですが、しかし著作権がどうなっているのかはわかりません。ですから、もしダウンロードできなくなった場合に、じゃあといって僕がホイホイとウェブにアップするわけにはいかないと思います。

もっと早い時期に記事にすべきだったのですが、なんとなくのんびりしてしまって遅れました。

というわけですので、ダウンロードできるうちにダウンロードしておくのがおすすめです。

というわけで本記事の主な内容は以上です。

ダウンロードしてそちらを読んでもらえれば、以下は必要ありません。

以下は、ダウンロードしない人向けにこの小論集をまとめます。というか僕自身の備忘録でもあり、また記事が短すぎないように引き伸ばして書いているだけでもあります。

さて、この小論集は全部で47ページありますが、絶対に読んでおいた方がいいと思えるのは前半の20ページです。もちろんその後のページも面白いのですが時間のある時でいいかもしれません。しかし前半20ページは必読だと思います。

仁科氏の論考のポイントは、「自然な日本語表現とは何か」というただ一点です。

以下、印象的な箇所を選んでご紹介します。

受け身表現について

日本人は「泥棒が入った」とは言わずに「泥棒に入られた」と言う。「女房が逃げた」とは言わずに「女房に逃げられた」と言う。「女がふった」とは言わずに「女にふられた」と言う。「あの人が助けた」とは言わずに「あの人に助けられた」と言う。必ずそう言うとは限らないが、そのほうが日本語らしい。

しかし、欧米人はそう言わないから「泥棒が入った」と訳す。(中略)しかし、「入った、逃げた、ふった、助けた」という表現がえんえんと続くと、それを読んでいる日本人はだんだん苛立ってくる。日本の文化は能動表現を許さないからだ。(p.3)

頭脳明晰な呉善花さんは「あなたに死なれると困る」という言い方がどうにも理解できなかったと書いている。

「あなたが死ぬと私は困る」となぜ言わないのか。そう問い詰められても、大方の日本人は答えられない。しかし、まともな社会生活を送っている日本人なら、無意識のうちに「受け身」表現が口をついて出てくる。このへんの呼吸を何度も間違えていると、社会からつまはじきにされるからだ。二人の間で、辛い仕事と楽な仕事のどちらかを選ばなくてはならない場合、「私こっちをやります」と言っていいのは、辛い仕事を選ぶ場合だけだ。楽な仕事を選ぶ場合には、まずくどくどと言い訳をしてから「私にこっちのほうをやらせていただけないでしょうか」と言わなくてはならない。何の言い訳もなしに、いきなり「私こっちをやります」と楽な仕事を選べば、なんて勝手なヤツだと思われる。(p.3)

急所で「受け身」を使うと、言い尽くせないものが残り、色気があって、余韻があり、つまり日本語らしくなる。そう思うのはわたしだけだろうか。(p.3)

因果関係の表現

この小論集の最大の山場は、川端康成の『山の音』の原文とサイデンステッカーが訳した英語版と比較して、日本語と英語の表現方法の違いを考察している下りです。

『山の音』は、僕自身の好きな小説でもあるので余計の感銘を受けたという面もあるのですが、まあそれを差し引いたとしても素晴らしい論考です。とにかく読んでみてください。

まずサイデンステッカー訳には”becauseがうんざりするほど出てくる”にもかかわらず、川端の原文には「なぜならば」「~のために」「~によって」などの表現がほぼ出てこないということが検証されています。

全部で18か所の比較が行われていますが1つだけ抜粋します。

I felt sorry for her because of the way Mizuta died, and couldn’t refuse.

水田がああいう死に方だし、僕は細君の顔を見ると、なんだか気の毒でことわれなかった。

(*太字はゆる子A)

日本語のcause-effect の表現というのは、「雨降って地固まる」という文型に尽きてしまう。

「雨降って」の「て」が、いつも原因・理由を示すと限らないことは、みなさんご存じのとおりである。しかし、そのひと文字で、複雑な因果関係を表現できる。それが日本語なのである。(p.3)

形容詞の訳し方について

英語は形容詞を連発するが自然な日本語は形容詞を連発しない、という指摘も僕にとってはありがたいものです。

これも『山の音』から15例の比較を行って検証されていますが1例だけ抜粋します。

Her voice was strained and unnatural.

妙な調子で言って、

(p.7)

翻訳はケースバイケースですから、文書によっては「こわばった不自然な声で」と訳出した方がいい場合もあるでしょう。ただし僕自身は「細部にこだわる必要はないので最初から日本語で書いたような文章で」といった感じの注文を受けることが多いので、上記の指摘はかなり役立っています。

それ以外にもこの小論集には以下のような指摘が含まれておりすべてすぐに役立つものです。

・very はすべて無視しちゃおう!
・最上級は軽くいなそう!
・how を訳すときは、おさえておさえて
・have to の訳出が腕のみせどころ
・クサイ言葉はどんどん飛ばしちゃおう!
・言葉を補って、日本語のリズムをつくろう!

といった今日から使えるテクニックばかりです。

たとえば和訳するときはどんどん飛ばした方がいいクサイ英語も、『山の音』の英訳から列挙されています。

川端の『山の音』には姿かたちもなく、サイデンステッカーの英訳に忽然と現れる語句を拾ってみた (ただし、2 回以上のものに限る。* は常連。★ は100%) 。

*actually         *in fact

after all          of course

almost           *oneself

*already         *particular(ly)

always           *really

at least          somehow

certain           somewhat

evidently        *still

exactly           suddenly

always           *really

at least          somehow

*how             ★very

*indeed          wholly

しかも『山の音』だけではデータが不十分との指摘を受ける恐れがあるので、仁科氏はで念のために椎名誠『岳物語』でもチェックしたそうで、その結果「私の予想どおり、いや確信どおり、上のリストから一語も削除する必要のないことが判明した」とのことです。

さて、以上かなり具体的なテクニックばかり列挙してきましたが、本小論集にはもっと大きな問題を指摘されています。その点を参照して本記事を終わりたいと思います。

それは「文章の寿命」と題された一文です。

漱石の『夢十夜』から、”真珠貝で穴を掘る”シーンを引用した後で仁平氏は、こう指摘します。

日本語はものすごいスピードで変わったとよく言われるが、ほぼ百年近く、なにも変わっていないじゃないかと驚嘆する(『夢十夜』の発表は明治41 年) 。と同時に、その百年の間に書かれた文章のうち、99%以上がすでに読むに耐えなくなったことも事実なのである。(中略) 漱石の「永遠の生命」の謎は、じっくり考えてみるだけの価値がある。(p.20)

僕自身は、じっくりとは考えていないのですが、俳優の鈴木瑞穂氏が朗読するオーディオブック『夢十夜』(新潮社)で睡眠学習しています。 しかし今見てみたところアマゾンは中古しかないですね~。イイ朗読なんですけど。

たいていの市民図書館には置いてあると思いますので、睡眠学習にぜひ。

まとめ

本論考の流儀を、技術マニュアルのような因果関係をはっきりさせる必要のあるドキュメントに直接適用するのは違うかもしれません。ただし、経済経営やマーケティング分野の文書を訳す人は参考になる点が多いと思います。

今でもダウンロード可能になっているのは、52歳で亡くなったこの優秀な翻訳家の業績を残したいという有志の方々の思いあってのことではないでしょうか。

そういう意味もソンタクしましてご紹介しました。ぜひ読んでみてほしいと思います。

ただし、蛇足ながら、初学者の段階ではあまり可読性にこだわりすぎるのは禁物でしょう。どうしても正確性がなおざりになりがちですので、ある程度正確な訳文が書けるようになってから取り入れるほうがいいかもしれません。

ただし、「ダウンロードだけはしておいてくださいね」という趣旨の記事でした。終わります。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

松山市生まれ、埼玉県在住 京大大学院博士課程中退 カンザス大学修士号 元短大教員 元警備員 元ITエンジニア 現在はウェブ翻訳家 以前は短期大学で常勤講師をやっていました。一生その路線で行くつもりだったのですが、思うところあって退職。その後は、コンビニのバイトを面接で落とされたり、警備員をやって深夜の霊園に怯えたり、ITエンジニアをやったりと迷走しつつ、現在はウェブ翻訳家に落ち着いています。