こんにちは。ウルトラライトゲーマーのゆる子ゆる雄Aです。
この記事では、ロールプレイングゲーム(RPGビデオゲーム)がデジタルネイティブ世代の価値観にどういう影響を与えているかについて、ホリエモン世代の僕が感じたことをまとめています。
具体的には、近未来RPGの傑作と呼ばれる「Fallout 3」を6カ月間にわたって実戦した経験に基づく考察です。
結論としては、
- RPGゲームの根底には「情報を資産として蓄積する」価値観がある
- 小学生のころからそういう積み上げの遊びをやってきた連中は強い
- 運や流れを引き寄せなくても確率を上げれば小さな勝利が手に入る時代だから
ということになります。
今、時代は過渡期にあるような気がします。厳密には、サブプライム危機から3.11あたりまでが本当の意味での時代の分水嶺だったのかもしれないのですが、だとすれば、今はそのポイントをやや通過したあたりでしょうか。
このあたりから、旧時代と新時代の開きが目に見えて大きくなりそうな気がしています。
そこで、なんとかして新時代の側につきたいと思っているゆる子Aとしては、若い人には教えるより、教わろうというスタンスです。
同じく新しい世代の側に付きたいと思っている同世代人は、「ゲーム、ゲーム」とバカにしないで、ぜひ読んでみてください。デジタルネイティブ世代の価値観を、オヤジ目線から理解する上では参考になる点があるかと思います。
また、若い人にとっては、自分たちの特性を客観的に見直してみるきっかけになれば幸いです。
それから、単にゲームが好きなという人には、「こういう見方もあるんだな」と思って楽しんでもらえるのではないでしょうか。
前半目次
- なぜRPGなのか?人生を野球で語らない世代の登場
- ゲームは1日30分!
- 「流れ」のない世界にて
なぜRPGなのか?人生を野球で語らない世代の登場
最近、ネットを見ていると若くて優秀な人が目立ちます。なぜその若さでそこまで、と自分の20代をふりかえるとため息が出ます。いつの時代にも優秀な人たちはいるのでしょう。しかし、やけに目立つような気がするのは、コンピュータやネットの発達と無縁ではないでしょう。
ゆる子Aは、パソコンに初めて触れたのが中学2年生のときで、ネットにはじめて触れたのが20代後半。いわば過渡期的な世代であり、コンピューターがなかった時代の雰囲気もある程度は分かるし、コンピューターが当たり前という世代の気持ちもある程度は分かるといった微妙な立ち位置です。
できることなら新しい時代をもっと楽しみたいので、デジタルネイティブ世代の優れている点を素直に学びたいと思っています。
そこで、なぜRPGゲームなのかと言いますと、僕より若い世代の人たちが、やけに人生をRPG(ドラクエ)に例えて語るのが前から気になっていたからです。
僕と同世代かそれ以上の年代の日本人は(とりわけ60代くらい以上の人は明らかに)、人生を野球に例えて語ることが多いんですよね。
しかし、それより若い人が野球で人生を語るのはほとんど聞いたことがなく、逆にみなさん、大体ロールプレイングゲーム(ほぼドラクエ)にたとえて人生を語るんです。それはほんとうに顕著な違いがあります。
堀江貴文さんあたりが上限ではないでしょうか。彼が人生を野球に例えているのは聞いたことがありませんが、RPGには例えているのは聞いたことがあるような気がします(はっきり覚えていません)。いずれにしろ、さらに若くなってひろゆきさんあたりの世代になると、もうはっきりと違います。
ドラクエにたとえて人生が語られるようになったのは、もちろん、そのほうが伝わりやすいからでしょう。つまり、世代の共通言語が野球からドラクエに変わったということだと思います(さらに若い人たちの間では、ポケモンで語るというのもありますよね)。
ゆる子A自身は、これまで人生を野球に例えて語ってきました。たとえば、仕事でミスったときには「平凡なゴロをトンネル」などと言っていました。はっきり言ってオヤジの勲章です。今思えば、じつに遺憾なことであります。
実は、僕には初代ドラクエを途中で放り出したというあまりうれしくない思い出があります。たしか高校生の頃だったと思いますが、単調なレベル上げの作業がつまらなくなって挫折しました。
お城と魔法使いとお姫様的なファンタジー世界にどうにもなじめなかったというのもあります。
以来、ゲームが好きにもかかわらず、RPGだけはだめという苦手意識があります。後年ファイナルファンタジーにも挑戦したのですが、ひっそりと挫折しました・・・。(ちなみに普段は、サバイバルホラー系のゲームをよくやります。バイオハザードですと、鈴木史郎氏、加山雄三氏など、70代にもファンの多いゲームですので、問題ありません。)
というわけで、ドラクエで人生を語られると、いまだになんとなく心がチクチクします。しかし自分より若い世代の人たちがドラクエで人生を語るのを耳にするたびに、「このままではいけない」という焦りを強くしていました。
そこで、Fallout 3です。この物語は、今から200年後。核戦争で荒廃したワシントンDCを舞台にした、もろにマッドマックスな世界観ですので、もしかすると楽しくRPGをクリアできるかも・・・と思って手を出してみました。
今年の1月に無事クリアしたわけですが、だからといって当初は、具体的に何かを学べると思っていたわけではなく、ただ面白くてやっていただけでした。しかし、終わってみると想像以上にいろいろなことを考えるきっかけになりました。長い目で見れば結局、このブログに手を付けた最初の原因にもなっていると思います。
ゲームは1日30分!
ゲームをやりまくれるような時間がありませんので、1日30分限定とし、最初のうちははスマホのタイマーで時間を測りながら遊びました。1日30分で無事クリアできるのかというと、けっこう余裕でした。実際には15分で区切りをつける日も多かったです。
たとえば、ドアを開けてミュータントが3体出現した場合は、月、火、水と3日かけて、毎日1体ずつ片付けるという、そんなゆるいスケジューリングでプレイしていました。
やったのは英語版です(アジア版)。日本語版だと「仕事をサボって遊んでいる」という罪悪感に負けてしまって楽しめません。それに英語版ならば「今どきの口語英語に親しんでいるのだから遊んでいるわけではない」という言い訳をしながら遊べます。
さて、僕は、スマホで簡単な日記をつけているのですが、それによると、2018年7月8日にゲームをスタートしていることがわかります。
Fallout3は、廃墟と化したワシントンDC一帯がゲーム空間に再現されており、その中を自由に歩き回れるようになっています。いわゆるオープンワールド型と呼ばれるゲームです。
始めてすぐに、ものすごいボリュームに圧倒されました。この日の日記にも「この夏はFalloutで終わりそうな予感」と書かれています。
しかし甘いですね。。。ゆる子Aよ。お前は見通しが甘い!と今なら言えます。
実際には、「この夏」どころか、年をまたいで2019年まで掛かっています。
2019年1月18日の日記に「Fallout3終了」と書かれているので6か月かかったわけですが、途中ではまって抜け出せなくなったポイントがあり、そこで1か月ほど放置したので、実質は5カ月です。
「流れ」のない世界にて
その結果、何が分かったかといいますと、RPGは「流れ」の概念がない世界だということがわかりました(ネット対戦型のRPGはここでは除外します)。流れというのは試合の流れのことです。RPGには、その代わりに「レベル上げ」という概念があります。
野球やサッカーを見ている素人のほとんどは試合の「流れ」を見て楽しんでいると思います。素人はあまり細かいところは見ていません。両チームの主導権の取り合いというか、つまり大局的な流れというもののせめぎ合いを見て楽しみます。
試合が始まってから終わるまでの間に、何度かゲームの「風向き」が変わりますよね。それを、ハラハラしながら見ているわけです。
しかし、RPGは、ゲームであると同時に優れたストーリーでもあります。映画のように順番に物語を進めて、プレイヤー(主人公)をラストシーンまで導かなければなりません。ですから、ゲームが流れに左右されないのは、当然といえば当然です。
長くなりましたので、流れのない世界観が、いかにネット時代にフィットしているかについての考察は後半「近ごろの若い人が優れている理由(その2) – RPG化する世界」の記事に譲ります。
(後半目次)
- 流れは乗るもの、レベルは上げるもの
- 流れは客観的、レベルは主観的
- リアルワールドに実力伯仲の戦いはない
- レベル上げを子供のころから知っているのは強い
- 新しいゲームがすべてRPG的なわけではない
- 結論:運や流れを引き寄せなくても、小さな勝利なら手に入る
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